入国審査でのトラブル
シアトルからアメリカに入国した時のことです。乗り継ぎ便まで1時間ほどしかなかったので、走りに走って入国審査の列に並びました。私の番になって係官が入国の目的を訊ね、「あなたは米国のビサを持っている。今回の訪問は短いがこのビサを使うのか。」言われたと、思いました。私は「このビサは昨年7ヶ月滞在した時に発給されたもので今回は必ずしも必要ではない。」と答えました。これが全てのトラブルの始まりだったのです。「ではエスタを持っているか。」とか何とか聞かれ、問いと答えが噛み合わないうちに「トラブルセンター」に送りこまれてしまいました。「そこに座って待て。」と言われ、怒り心頭の私は、「私は有効なパスポートを持っている。ビサも有効だ。10日間の短い訪問の何が悪い。私は乗り継ぎ便に間に合わなければならない。」とまくし立てました。「乗り継ぎ便に関して我々は関知しない。文句を言えばそれだけプロセスが遅れる。皆忍耐強く待っているのだ。黙って順番を待て。」と言われました。振り返ってみると十数人のアジア、中東、ラテンアメリカからとおぼしき人々があきらめきった顔で静かに座っていました。乗り継ぎ便に間に合いたいという焦りを断念して座った時、係官の大半がラテンアメリカかアジアの出身者だということに気づきました。違いは国家権力の側にいるか無力の側にいるかいうことです。
当然私は乗り継ぎ便を逃し、その日の目的地であったミルウォーキーに到着することなくミネアポリスのモーテルで一夜を明かしました。まだ納得できず腹立たしい思いで一人モーテルの一室で夜を過ごしていた時、あの「トラブルセンター」の光景が甦ってきました。でも、そこにはイエスの姿がありました。イエスはあきらめきった人々の一人として静かに座っておられたのです。あの人々の中には適切なパスポートや帰国のチケットのなかった人もいたかも知れません。有効なパスポートとビサ、帰国のチケットを持っていた私は『自分はこの人々と同じじゃない!』と主張して怒っていたのです。イエスが私なら乗り継ぎ便は即座に放棄し、『無力の側』の人々と共にあることを選ばれたことでしょう。長年イエスについて行きたいと願いながら、今だに「力の側」にいることを当然としている自分自身を再発見する強烈な体験でした。