「待つ〕と言うこと
現代人は待つことが苦手だと言われて久しいです。
11月下旬、私はもみじの名所、永観堂を訪ねました。秋晴れの穏やかな朝、永観堂はすでに観光客で賑わっています。かつてノートルダム女学院中学高等学校に奉職中の頃は、私が住んでいたノートルダム修道院がごく近いこともあり、幾度となくその周辺を散策したものです。あれから20余年が過ぎ去りました。これまでずっと永観堂禅林寺で一人静かに「みかえり阿弥陀様」と対面する機会を待っていました。
私たちはいつしか時間に追われスピードと効率を優先させる環境に慣れ親しみ、待つことは苦手のようです。世が世だけにこのような環境から少しばかり身を引き、自分のあり方を見つめる機会を作らなければと常日頃感じていました。
ようやくその願いが叶えられようとしています。みかえり阿弥陀さまの前に立ちました。 立ったと言うよりは静かにそこに正座し、阿弥陀様と対面しました。77センチの本尊像が私を穏やかに迎えてくださったように思われました。右手を胸のあたりに、左手の掌を下方に向け全体的に全てを受け入れる姿勢をしておられます。左後方を振り返りながら暖かい眼差しと仕草で待ってくださっているように感じられました。遅れる人々を待ち、迎え入れようとする姿勢に母親のぬくもりを感じさせてくれます。この暖かさの前で人は、理屈抜きに素直になれます。平素することが山積みにされ、心の平静さを失いがちな私に向けられた温和なまなざしが私を安堵させ、来て本当に良かったと素直な心になりました。
まもなく迎えるアドヴェント(待降節)はイエスの誕生を待つ大切な、しかも浄化の「時」です。人々は無防備な幼子の中に慈悲と憐れみを感じようとし、幼子を迎え入れようと心を整えます。