新しい日常を創り出そう!
お久しぶりです。3.11以来、世界がすっかり変わってしまいましたね。少し長いですが、今の私の思いを聴いて下さい。
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東日本大震災から1ヶ月余りのころ、ある新聞のコラムでこんな記事を目にして驚いた。「…震災から1ヶ月、社会の自粛ムードによる景気の低迷やその復興への悪影響が経済界で懸念され、政府も『過度の自粛ムードにおちいらないように』と呼びかける仕儀となった。…『震災に負けるな』はすでに全力で闘う被災地への言葉にふさわしくない。震災が奪った日常を取り戻そうとする全国の人々への激励と考えたい。」
3月11日、突然の地震と津波が3万人に及ぶ人々のいのちを一挙に飲み込み、15万人を超える人々の家と生活基盤を根こそぎ奪い去った。そして、まさかの原発事故が追い打ちをかけている。日常を取り戻すことは決してできない。今、私たちがしなければならないことは全く新しい日常を創りだすことではないか。
「新しい日常を創り出す」。理念を語ることはできる。常々考え、口にもしてきたことだ。今肝心なのは、それを自分自身の「日常」にすることである。もし、これが大震災と津波だけであれば、被害がいかに甚大でも、被害の非当事者はどこまで行っても当事者を「できる限り支援する」立場にしか立ち得ない。しかし、福島原発事故は、否が応でも日本に住む我々全てを当事者にした。「2030年までに原発14基を新設し、電源の半分近くを原子力でまかなう」という政府のエネルギー基本政策は見直さざるを得ない。見直してもらわないと困る。しかも方向転換は待ったなしだ。夏の電力需要ピーク時をどう乗り切るかの課題が目前に迫っている。政策決定者には立場の違いを超えて早急に舵を切り直し、具体的に動き出すことを求めたい。
日本もその一部である先進諸国は、これまでひたすらエネルギー消費を増大させることで経済成長を追求してきた。今日の日本経済は、1950年当時の約11倍ものエネルギー消費の上に成り立っているのだそうだ。個人も便利で快適な今の生活を手放し難い。企業の生産活動も然りである。しかし、原発の安全神話が崩れた今、新たに創り出そうとする日常は、低エネルギーで発展可能な社会に基盤を置く以外にはないだろう。
政策決定者に方向転換を迫ると同時に、まずは自分自身である。ささやかな日常に、ものを手に入れたり消費したりするとき、「これは本当に必要か。」と自分に問い続けなければならない。「なくても済むのに、あれば便利」という物や機会に囲まれて生きている自分は、周囲の人々や自然、世界の人々や地球環境からなくてはならないものを奪って、快適な生活を確保しているのではないか。
ヨハネの黙示録にこのような箇所がある。「…見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、手にナツメヤシの枝を持ち、…彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、…彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(7:9~17) 地震と津波で命を落とされた方々、原発事故修復に命をかけた方々は間違いなくこの≪大きな苦難を通って来た人々≫の中におられる。≪神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。≫と書かれているが、私たちがこれから末永く共に幸せに生きて行かれる「新しい日常」を生き始めるのを見届けた時、初めて彼らの涙はぬぐわれるのであろう。私たちがこの大惨事の意味を正しく把握し、「新しい日常」を創り出すことができるよう、神に助けを願おう。