「父親なら手を離さないよ」
「父親なら手を離さないよ」
先日、ぐうぜんテレビをつけると、ずっと以前にみた「ドクトル・ジバゴ」という古い映画をしているようでした。ロシア革命前後の動乱期をいきた、医者で詩人のユーリー・ジバゴの数奇な人生と愛を描いて、ノーベル文学賞を受賞した ロシアの文豪ポリス・パステルナークの長編小説を映画化したものです。パステルナークはこの小説で聖書の黙示録を暗示し、彼自身の悲願をこの作品に込めたといわれています。
画面はもう終わりの方で、ユーリー・ジバゴの忘れ形見を探す異母弟のジバゴ将軍が、1人の少女に「父親なら手を離さないよ」と、言っている言葉が、私の心に強く響きました。イエスさまは放蕩息子のたとえ(ルカ15・1132)で、父なる神の無条件の愛を告げ、使徒パウロは「何ものも神の愛から、私たちを切り離すことはできない。(ロマ8・38-39)」と言います。この「父親なら手を離さないよ」という言葉は、作者パステルナークの信仰の中心だったに違いないと私は思います。 詩篇の「(神は)右の御手をもって私をとらえてくださる。(詩139・10).」を、私はいつの間にか「神の右手は私をつかんで離さない。」と言いかえていました。
私たち1人ひとりを決して離されない神を信じると決めたとき、新たな生き方ができるのでしょう。もう一人のロシアの文豪、トルストイの言葉、「生きるよすがは愛である/ 愛のよすがはゆるしである/ このゆるしがある故に/ 生きとし生けるものは復活する」を思い出しました。