「父よ、一つに」
「父よ、一つに」
2月なかば、長崎の立山にある黙想の家で、一週間の年の黙想をしました。立山は400年前、外国人や日本人の司祭たちや3人の少年をふくむ日本人キリスト者たちが、信仰のために十字架にかけられて命をささげた特別なところです。沈黙と祈りのしずかな日々をすごしながら、父である神の家で、その慈愛につつまれている喜びを感じたのでした。
そのある午後、レデンプトール修道会のシスターである叔母を見舞いました。久しぶりに会う伯母は思いがけなく認知症がすすんでいました。自分を思い出してもらえないことが分かって私は思わず涙ぐんでしまいました。叔母はそれでもシスターです。私が持って行ったほほえむキリストの絵をじっと見て「きれいな人ね。一人で持つのはもったいないでしょう」といったのです。「しあわせ?」と尋ねた私に、明るくほほえんで「しあわせ」と答えたことに慰められながら、私は黙想の家に帰りました。
晩の祈りをしながら、自分からは祈れないのかもしれない叔母のためにも、私が祈っているのだと感じました。地球上のすべての人々、神のもとにあるすべての人々、そして、天地万物とともに、神を賛美しているのだと感じていました。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるようにすべての人を一つにしてください(ヨハネ17.21)」と祈られたイエス様とともに。