声
岩倉修道院で過ごす週末の楽しみの一つは、修道院の裏庭に隣接するグランドから響いてくる、野球少年の声を聞くことです。少年の声に混じって、ほめたり、叱りつけたり、力いっぱい指導していらっしゃる監督さんの素晴らしい声が聞こえてきますから、少年の声はいっそう引き立ちます。掛け声と共にランニングをしているのでしょうか。その声は遠くになったり、近くになったり、さまざまな方角から聞こえてきます。
学校の教室で、声を出す練習をさせ、作品の音読破に取り組ませながら、児童たちをうながしている私は、グランドの少年たちに向かっても、「がんばって!」「おなかからの声を出して!」と、届かぬ声で励ましてしまいます。
人の声は心を引きつけます。呼びかけや、かけ声は、人の心に不思議な働きかけをするものです。人の声のもとになるのは、息ですから、その人の命の営みを伝えることになります。魂の高鳴りを伝えるものですから、その人の感情を受け取ることになります。
『 生まれたばかりの赤ちゃんはお母さんの声を始めて受け取ります。声と言葉によってお母さんの命の息を自分のものにするのです。何と感動的な瞬間でしょう。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きたものとなった。」(創世記2章7節)私たち一人ひとりは何と尊い存在でしょう。 』
そんなことを思いめぐらしているとき、幼い声に混じって聞こえてくるのは、声変わりをし始めた6年生の声です。思わず胸が高鳴ります。卒業の日が近づいています。
シスターアンミリアム木村