ノートルダム教育修道女会   祈りの家告知版  (2018年5月31日更新)

     2018年度 第1回 女子青年信徒黙想会の報告

 
5月26日(土)〜27日(日)に、唐崎修道院で、2018年度 第1回 女子青年信徒黙想会をいたしました。子供を参加させたいので、まず自分が参加したいという1人のお母さんを含めて、5人の参加がありました。1人以外は初めての参加でした。

 ご受難会の山内十束師が、今回もお忙しい中をご指導くださいました。

 テーマは、「マルコによる受難」で、神父さまはまず、マルコ福音書で祈るコツを話してくださいました。マルコはイエスと共に生活していた。自分の挫折と後悔の上に、救いと信仰を見ている。マルコは自分の衝撃的な体験であるイエスの受難と十字架の出来事から、記事を書きはじめ、他を書き加えていったに違いない。福音書で語られるイエスの言葉と今の自分を並べて置き、何が問われているのかを探さねばならない。聖書を自分と重ねなければ、聖書を読む意味がない。自分は導かれてここにいる、導かれて全てが始まった。(この神父さまのお話しで聖書が生き生きとしてきました。)

 講話は、マルコ15章1〜41節で、第一日は1節〜15節をていねいに読んでいきました。この個所でイエスは、ユダによって祭司長たちに引き渡され、最高法院はイエスをピラトに引き渡し、ピラトはイエスを兵隊たちに引き渡し、祭司長に扇動された群衆の求めに応じて、ピラトはイエスを十字架につけさせるために引き渡しました。誰もイエスと関わりたくなかったのでした。イエスは引き渡される理由もないのに、次々と引き渡されたのでした。私はここで何を問われているのでしょうか

 第2日は16節〜41節を読みました。兵士たちはイエスを十字架に引き渡しました。兵士たちではなく、十字架がイエスをがっちりと受け止めたのでした。イエスは十字架からお降りになりません。そこがイエスの居場所です。イエスが十字架にいることに意味があります。イエスは大声で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた。そして、再び、大声を出して息を引き取られた。その意味は私たち一人ひとりが聞き取る事柄でしょう。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と聖書は記します。神と人とを隔てていた幕が裂け、神とこの世がつながり、何が新しいことが確かに始まりました。イエスの方を向いて立っていた百人隊長が、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言います。十字架上のイエスを中心にして、同じものを見ていながら、受け止め方にこれほどの違いがあること、また、異国の人の目を通さなければ、本当のことは分かっていなかったという神父さまの言葉が心に残りました。

 5月27日は三位一体の主日でした。「マルコによる受難」を黙想しながら、神の子、私たちの主イエス・キリストへの信仰がより深くされたように感じたのでした。

次回の黙想会
日 時:2018年7月7日(土)15:00〜8日15:30
テーマ:マタイによる受難
締め切り:7月2日(日)
場 所:ノートルダム唐崎修道院
対 象:独身女子青年信徒
費 用:2,500円

<申込み・問い合わせ>
〒520-0106 滋賀県大津市唐崎1-3-1
ノートルダム教育修道女会
Sr.桂川
пF077-579-2884
ファックス:077-579-3804
eメール:karainorind92@mbe.nifty.com